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歴史的背景

 「我石といき石我と語る」より抜粋   発行:羽黒石材商工業協同組合(平成7年12月6日)

羽黒石の特徴(昭和40年代の記録より)

 羽黒石と総称しているが、石の質は産出される山によって多少違っている。加波山系の山で通称橋本山、上城山より産出されているのは花崗岩でも「糠目」と「小目」のもので良質であるが、いずれも玉石より採るために歩留りがよくない。従って価格も糠目石での単位単価は他の丁場と比べると比較的高価である。「中目」「大目」は東部地区より産出されるもので、これは稲田御影と同質の 石であり大材も採ることができる。現在これらの石を採服している地区は糠目・小目のとれる橋本山、上城山は国定公園内であり、表土や採掘後の環境保全が厳しく規制されており、今後新しく 採掘されることはないであろう。一方、大目・中目も採掘されている地区は、県立公園にかかりこれも規制をうけている。このようにして、この地区における採石は昔ほど自由にできなくなっているため、石材業者は採掘より加工業への転換を余儀なくされている。
 このように経済成長とともに急激に伸びたわが石材業界であるが、明治20年仙波兵庫、福田綱五郎等の先見性や水戸線開通によってその需要が急激に増大した。 それよりも少し早く現在の笠間市稲田地区は「稲田の御影石」として全国にその名を馳せた。羽黒の石材を語るについては、この先進地ともいうべき稲田の石材のルーツを避けては通れない。故に稲田の石材発展の元祖ともいわれる何人かの 人物に焦点をあて、歴史をひもといてみる。

昭和31年、稲田石採石場風景(昭和石材提供)
 
現在の「やさとみかげ石」採石場(加波山)
鍋島翁頌徳碑
 
稲田停車場貨物駅(大正3年当初)

鍋島彦七郎

 今でも稲田駅前に「鍋島翁頌徳碑」がある。これは明治39年に建立されたものだが、その中に「鍋島翁は備後(今の広島県)の人で少壮の時より石匠となり、明治29年稲田に来り、その地の花崗岩の石材、石質良好甚だ有望なることを思い、現地の有力者塙豊樹、武藤藤兵衞、笹目宗兵衛等と謀って採石にとりかかったところ、稲田花崗岩の名声はい よいよ顕著となり日本鉄道会社に対し、稲田停車場貨物駅を開設するに至った」 と記されている。彼は備後の国、吉田家の二男として誕生、少年の頃、郷里の呉服問屋へ奉行にでたが婦人相手の商売にはあきたらずそこをやめ、上京した。
 東京九段の石材問屋志石園に勤務、熱心な仕事ぶりを認められ、東京下谷竹町の鍋島家の婿養子となり鍋島家の姓をつぎ、石材問屋鍋島商店とし志石園を経営、更に商売を拡張し稲田石に目をつけ、笠間石材会社と契約を結び発展させた。彦七郎は晩年、鍋島商店稲田出張所の業務一切を代理者として経営にたずさわってきた支配人高田愿一に継承して第一線をひいた。

鍋島彦七郎

藤原与太郎

 与太郎が石を求めて移住したのは 定かではないが、香川県小豆島の出身である。彼は数名の名だたる石工をつれて小豆島といえば石材業め先進地で古くから石材加工の技術者がいたので、弟子にもめぐまれ順調に事業を拡張していたが、所詮、他県人、地元の人で人柄のよい軍事卯之吉に協力をたのんだのは賢明であった。このため与太郎はじめ石工たちは安心して仕事に専念できた。水戸線開通のため多量の石材注文をうけた。
 鉄道のない時代、山から切り出した石を運ぶのは並大低ではなかった。車や牛、 馬、人々はし梯子で石を背負ったといわれている。やがて水戸線が開通、このよう仕事をはじめ数々の事業に活躍した藤原与太郎は大広、茅場方面の山を開発した草分けの人だったのである。採石はできるが輸送に苦心していたところへ明治33年中野喜三郎の後を追ってきた土屋大次郎が、水田丈九郎と共同事業で採石したいといわれ、与太郎はこの事務所を譲り渡し、石材界から身をひいたといわれている。

中野喜三郎

 
 
 安政6928日、香川県小豆郡豊島村に誕生。明治10年父玉吉のもとで石工の修行をはじめる。当時の日給は18銭、額に汗して働くことの尊さを知った少年喜三郎は大阪に修行、24才の時兄とともに上京皇居御造営に参加、眼鏡橋の工事を請け負う。事業がようやく緒についたころ連続して不幸が彼を襲ったが、受難逆境にめげず立ち上がり、東京に中野石材工業事務所をおき石材土木建築にも進出、大阪へも進出する。
 少年時代から石工として育ってきた彼の夢は自分の山を求めることにあった。そのため稲田石の開発には声明をかけ20余名の石工や従業員とともにのりこみ、本格的な開発に着手した。切りだされた石材は電車軌道の敷石となり、それからが石材業会トップに位置し、、中野組が設置される、爾来数十年2代目中野慶吉、 三代目中野喜久夫へとひきつがれ中野組石材工業株式会社として発展している。中野健吾は県議会議員、県教育委員長、弓道界最高峰の栄誉である範士十段となり、知る人ぞ知る「ひげの偉人」であった。

土屋大次郎

 前に紹介した偉大な人物とともに、稲田石の開発に没頭し石材業土屋商店を開業した。土屋氏のあとは朝倉氏となる。
 稲田石に目をつけたのは、他県人ばかりではない。稲荷神社の宮司塙豊樹、酒造業武藤藤兵衞、同じく酒造業笹目宗兵衞等の3人の共同出資によってすすめられ、 これを石山3名組ともよんでいる。

地元の人達

 岩瀬の仙波兵庫など、早くからこの石材の発展を予測し、常陸石材会社を設立振州に努力し、笠間の塙豊樹、武藤藤兵衛、笹日宗兵衛もまたしかりである。しかしながら、稲田石との関連でものべてきたが、一獲千金を夢みてこの地の石材に心をよせ開発にとり、かかった県外出身者の多いことに気づく。すでに明治維新で誰もが文明開花、富国強兵を合言葉に活動できる時代になったので、偉大な開拓者 としてこの地を発展させた他県人たちの勇猛果敢な事業への取りくみも讃えなければならない。
 羽黒へ来た山口県出身の福田綱五郎、千葉県出身の大貫亀吉、 稲田では広島県出身の鍋島彦七郎同じく高田愿一保寿、香川県出身の藤原与太郎同じく中野喜三郎、神奈川県出身の土屋大次郎、水田文九郎、浄々たるメンバーがこの地にのりこみ、土地の有力者と提携して着実に石材業をこの地区の基幹産業として伸していった。
 広島県、香川県などの山地や島々には石材の豊富な産地があり、それを水運、 海運を利用して発展させていった。港湾や大きな川の流れ沿いに文化や産業が発 展していったことは事実である。大阪城、名古屋城の城石についても、すべて海運から陸送へ、今の時代から考えるとこの輸送に莫大な人件費かかかったに違いない。

鬼怒川を利用し東京湾経由で東京へ資材を搬入